もう、何年も前のことになりますが、同じ市立の高校で、国語の公開授業があったので見に行ったことがあります。
古典の授業でした。
教材は何だったか、もう忘れてしまいました。
40代半ばの男の先生の授業でした。
その高校の国語の先生達も、その授業を見に来ていました。
その中には、以前の職場で同僚だった先生方もいて、目配せをしたりしました。
アドバイザーということで、近所の女子大の先生が来ていました。
大人しい感じの若い女性の先生でした。
覚えているのは、その授業の内容が、あんまり良くなかったことです。
たぶん、授業の手順とか、主に取り上げる箇所とか、文法の説明とか、そういういろんなことが、良くなかったのでしょう。
ダメだーと思いました。
少し怒りも覚えました。
私は、質の良くない授業を見ると、いつも無償に腹が立ちます。
これは教員なら誰でも同じなのではないかとも思いますが、わかりません。
授業のあと、学校の時間帯に従って10分の休憩があり、そのあと質疑応答ということになっていました。
休憩になると、親しい兄貴分とも言える、元同僚がやってきて、
「おまえ、あんまり言うなよ。」と言いました。
私がこの授業に内心腹を立てていたのが分かったのでしょう。
私は何でもすぐに顔に出てしまうのです。
その上、しょっちゅうこの口が災いを招いています。
質疑応答はいくつかあって、私も何か言ったと思いますが、さっき釘を刺されたので、あんまり致命的なことは言わなかったと思います。
アドバイザーという女子大学の若い先生は、何か少し本質的な所にコメントされました。
小さな細い声で、少し首をかしげながら、口の先の方で話す人した。
私は、彼女の指摘はいい指摘だったと思ったけれど、ほかの人が、それをどう思ったかわかりませんでした。
結局、この授業の決定的なダメさについては、さほど印象に残らない感じで、公開授業研究は終わりました。
家に帰ってから同業者の夫に、授業が、腹の立つほどダメだったと話しました。
それでも、いいんだと夫が言いました。
あの、何でも詳しくてすごいプリントを作るM先生のクラスより、あいつのクラスの方が平均点はずっといい。
生徒の反応もいい。
先生を応援しよう、はげまそうと思って、生徒が頑張るんだ。
みんながそう思ってる。
誰も何にも言わんかったろ?
全体に薄い感じのする、あの女の先生の、重要で本質的な指摘は、あの場にいる誰にも届かなくて、
「そうか、読んでみてくれ。」
「そうだよな、できるな。」
「はい、ありがとう」っていう、
たえず生徒によびかける、授業者の先生の声の方が、みんなに届いていたということなのでしょうか。
授業の目的は、授業そのものの正しさとかうまさではなくて、子どもにあります。
それを忘れないでいられる学校は、いい学校なのだと思います。
学校が、教官室が、教室が機能するということは、こういう先生がこの先生として活かされているということだと思います。
そういう学校では、いろいろな生徒が、それぞれに活かされているのだろうと勝手な想像をしました。
古典の授業でした。
教材は何だったか、もう忘れてしまいました。
40代半ばの男の先生の授業でした。
その高校の国語の先生達も、その授業を見に来ていました。
その中には、以前の職場で同僚だった先生方もいて、目配せをしたりしました。
アドバイザーということで、近所の女子大の先生が来ていました。
大人しい感じの若い女性の先生でした。
覚えているのは、その授業の内容が、あんまり良くなかったことです。
たぶん、授業の手順とか、主に取り上げる箇所とか、文法の説明とか、そういういろんなことが、良くなかったのでしょう。
ダメだーと思いました。
少し怒りも覚えました。
私は、質の良くない授業を見ると、いつも無償に腹が立ちます。
これは教員なら誰でも同じなのではないかとも思いますが、わかりません。
授業のあと、学校の時間帯に従って10分の休憩があり、そのあと質疑応答ということになっていました。
休憩になると、親しい兄貴分とも言える、元同僚がやってきて、
「おまえ、あんまり言うなよ。」と言いました。
私がこの授業に内心腹を立てていたのが分かったのでしょう。
私は何でもすぐに顔に出てしまうのです。
その上、しょっちゅうこの口が災いを招いています。
質疑応答はいくつかあって、私も何か言ったと思いますが、さっき釘を刺されたので、あんまり致命的なことは言わなかったと思います。
アドバイザーという女子大学の若い先生は、何か少し本質的な所にコメントされました。
小さな細い声で、少し首をかしげながら、口の先の方で話す人した。
私は、彼女の指摘はいい指摘だったと思ったけれど、ほかの人が、それをどう思ったかわかりませんでした。
結局、この授業の決定的なダメさについては、さほど印象に残らない感じで、公開授業研究は終わりました。
家に帰ってから同業者の夫に、授業が、腹の立つほどダメだったと話しました。
それでも、いいんだと夫が言いました。
あの、何でも詳しくてすごいプリントを作るM先生のクラスより、あいつのクラスの方が平均点はずっといい。
生徒の反応もいい。
先生を応援しよう、はげまそうと思って、生徒が頑張るんだ。
みんながそう思ってる。
誰も何にも言わんかったろ?
全体に薄い感じのする、あの女の先生の、重要で本質的な指摘は、あの場にいる誰にも届かなくて、
「そうか、読んでみてくれ。」
「そうだよな、できるな。」
「はい、ありがとう」っていう、
たえず生徒によびかける、授業者の先生の声の方が、みんなに届いていたということなのでしょうか。
授業の目的は、授業そのものの正しさとかうまさではなくて、子どもにあります。
それを忘れないでいられる学校は、いい学校なのだと思います。
学校が、教官室が、教室が機能するということは、こういう先生がこの先生として活かされているということだと思います。
そういう学校では、いろいろな生徒が、それぞれに活かされているのだろうと勝手な想像をしました。
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by coco-sensei
| 2009-12-02 10:55
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